写真芸術家 

 

遊び心満載の、少年の心持ち─ 

 

岡山県:写真家

妹尾 健太郎(せのお けんたろう



健太郎の遊び心:500円 税込み(電子書籍)
健太郎の遊び心:500円 税込み(電子書籍)

 これはまさに〈オレ・俺・おれ〉の氾濫である!

 スサマジイばかりの精神と、炎を内に秘めた性格から、波乱万丈の人生を送った“健太郎”こと妹尾健太郎。彼のモノクロ写真集がついに刊行された。彼が〈オレ・俺・おれ〉精神から得た着想は、まさに“健太郎イズム”とでも言わんばかりの様相であり、ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」として認識された「写真」という概念をも打破するようなその面持ちは、魅力的な眼差しをもって迎えられるはずだ。

 

 彼の愛用のカメラはニコン製(F5・F601・F3を2台)であった。残念ながら私にはカメラの詳細については分かりかねるのだが、これらのカメラから次々に撮影されてゆく光景がありありと思い起こされるようで愉快だ。まさにカメラと彼とは一心同体であったということがひしひしと伝わってくるのである。

 

 ところで前に私は「スサマジイばかりの精神」と評したが、しかし妹尾健太郎の場合、その被写体が“私”という、生ぬるいものでは無かったことにまずはびっくりするのである。というのもそれは、健太郎イズムの“我”であって、この“我”こそが妹尾健太郎の「遊び心」を爆発させた起爆剤であったのだ。しかしこれは決して「独我論」ではない。即ち、自己を是とし、他者を非とする思想ではなくして、あるいはまた「個」という認識でもなくして、まさにこれこそが「オレ」なのだとする、理屈ではなく噴出した「自我」として結実したものなのだ。

 

 本書のタイトルは「健太郎の遊び心」であるが、この頭の部分の「健」と「遊」とをそれぞれ取って“健遊”という言葉を創造し、なおかつ「“健遊”がオレの戒名だ!」と豪語していた妹尾健太郎。彼こそが「人として」の誇りを保持した、いみじくもニーチェの述べたような「超人」であったということに気付かされた私は、ひょっとすると幸せ者かも知れない。

 

文/菊地 道夫

 


Q & A


 

妹尾 健太郎(せのお けんたろう)

1943年 岡山県に生まれる

1966年 岡山大学教育学部卒業

岡山市内小学校教諭

2004年 岡山市横井小学校校長を最後に定年退職

京都造形芸術大学通信教育部写真コースにて4年間学ぶ

2015年 9月5日 他界


今回は、既に他界した健太郎氏に変わって、奥様の知子様にお答えいただきました。 


 

○ プロフィールについて

 

―知子様の生年月日を教えてください。

 

妹尾知子(以下、妹尾):1946年(昭和21年)1月2日です。

 

―幼少期はどんな少女でしたか。

 

妹尾:近所の子供たちと男の子も女の子も一緒になって、縄遊び、ボール遊び、石けり、めんこなどでよく遊んでいました。農繁期には田植え、稲刈りなど農作業の手伝いもよくしました。当時はすべて手作業だったので、たよりにされていました。

 

―ご家族との思い出の中で、印象深いものを教えてください。

 

妹尾:私が高校を卒業した年に、父が倉敷に転勤となり、官舎に入ることになりました。そこで私が倉敷から学校へ通うこととなり、姉は大阪の大学へ行っていたので、家には母と妹だけとなり、2年ほど5人の家族が3ヶ所に分かれて暮らした時期がありました。

 

―学生時代は主に何を学ばれていましたか。

 

妹尾:岡山大学医学部附属衛生検査技師学校で、1年目は医学に関する講義が主で、2年目はほとんど病院の中央検査部での実習でした。就職して5年目に国の制度が変わり、採血、生理検査の項目が増え、国家試験を再度受け、臨床検査技師となりました。

 

―岡山県の良いところ、住みやすさ、魅力などを教えてください。

 

妹尾:私が住んでいる岡山県南部の総社市は、気候も温暖で、災害も少ない、とても住みやすいところです。稲作のほか、桃、梨、ぶどうなどのくだものも盛んに作られています。

 

―また、美味しいお店、絶景ポイント、地元客が集まる温泉、岡山に行くならはずせない神社仏閣、また行事などを教えてください。

 

妹尾:瀬戸内海で採れたさわら、あなご等を入れたちらし寿司はとっても美味しいです。絶景ポイントは、備中国分寺の五重塔(総社市にあり吉備路の代表的な景観です)、鷲羽山からの瀬戸大橋の眺めです。温泉ですかは、サンロード吉備路(総社国民宿舎)とか湯原温泉、また奥津温泉、美作温泉(県北)が有名です。神社仏閣は宝福寺(これは総社市にあり、雪舟が修業した寺です)他、吉備津神社、吉川八幡宮(吉備中央町にあり、“当番祭”が行われています)があります。

 

―現在何か趣味やボランティアなどの活動をされていますか。

 

妹尾:更生保護女性会と、小学校のボランティアですね。

 


 

○ 健太郎氏について

  

―健太郎様とはどうやって出会われましたか。また、第一印象はいかがでしたか。

 

妹尾:お見合いです。とっても無口で、ぶっきらぼうで、あまり良い印象では無かったですね。この頃、健太郎さんの家族は玉野市(瀬戸内海沿い)に住んでいたため、初対面でした。

 

―出会ってから結婚するまでどれくらいの期間がありましたか。

 

妹尾:1年半くらいですね。

 

―簡単に言うのは難しいかとは思いますが、結婚生活はいかがでしたか。

 

妹尾:結婚したとき、健太郎さんは教員になって4年目で、岡山市内の小学校へ転任した年でした。新居は学校近くの小さな一戸建ての借家です。そこではセキセイインコ、カナリヤ、文鳥など三十羽くらい飼っていました。卵を産み、どんどん増えてとてもかわいかったです。また、この頃から「やることはデッカイなー」と驚くばかりでした。クラスの子供たちが度々家にやって来て、小さな家は弾けそうでした。

 

―健太郎様の写真についてどう思われますか。

 

妹尾:作品についてはよく分かりませんが、一生懸命に取り組んでいたことには敬服します。

 

―知子様ご自身も写真を撮ったりするのでしょうか?

 

妹尾:父がよく写真を撮っていたので、私も学生の頃はよく撮っていましたが、健太郎さんがあまりにも撮りまくるので、やめてしまいました。でも、買ってくれた小さいデジカメがありますので、いつかは撮りたいとは思っています。

 

―ご主人が趣味に没頭すると、それを面白くは思わない奥様も世の中にはたくさんいます。知子様はとても健太郎様を応援しているように感じるのですが、その辺りはどうでしょうか。

 

妹尾:心から応援していました。たくさんの趣味を持って、次々と実現させ、作品として残していることに頭が下がります。写真を撮るために、いろいろな所へ連れて行ってくれ、思い出をいっぱい作ってくれたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

 

―失礼な質問かもしれませんが、健太郎様の写真を見ていると、とてつもない個性が光っています。もしかしたら変わり者と呼ばれていたのかなとも感じるのですが、普段はどんな方でしたか?

 

妹尾:子供達の前では面白いことを言って笑わせたりしていましたが、いつもは控えめで内気な性格でした。

 

―健太郎様が作品作りに対して、どんな思いで、気持ちでとり組まれていたのか、もしご存じでしたら教えてください。

 

妹尾:日頃から写真集を作ることは決めていたと思います。ある朝「やっとオレが入っている写真が揃った。」と言ったのです。写真集については、「どの作品にもどこかに自分がいる、もうすぐ命はなくなるが、この作品を見てくださる方々に、モノクロ写真の深さ、いろいろと工夫して仕上げた“オレ流”の作品から何かを感じ取っていただきたい」と思っていたと思います。

 



 

○ 若者にフォーカスした人生論

 

妹尾:何事も、やろうと決めたことはよく研究し、生涯目標をもってやり続けることです。

 

―人生の教訓を教えてください。

 

妹尾:何事にも強い信念を持ち、計画を綿密に書いて、途中でやめることなくやり通していた亡き主人が、私の人生の教訓です。私にはとても出来ないことです。少しは見習いたいと思います。

 

―人生で最も影響を受けた作品(本や映画など)を教えてください。

 

妹尾:毎日雑用に追われ、本も映画も見る事が出来ません。最近では『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子/著)、映画では「永遠の0」「おくりびと」「八甲田山」などを観ました。

 


 

○ 人生の先輩として大志を抱く方へ、メッセージをお願いします。

 

妹尾:小・中学生、高校生がほとんどスマホを持つ時代となり、奇妙に使いこなし、買い物や乗り物などの支払いはカード化されている現在、苦労を超えた田舎者の私にはついていく事が難しいです。高齢者と若者の格差はどんどん広がって行き、不安は増すばかりです。これからの若者には、ますます発展するメディア社会を悪用することなく「住みよい社会」を作っていってほしいです。

 



○ 知子氏による作品紹介

 

 2015年6月4日、彼があの体で、また限られた時間の中で、これまでの膨大な作品群の中から作品を選び終えた時の、あの嬉しそうな顔が目に浮かびます。

 

 いろいろありました。「ヤッター、これで写真集が出来るぞー」と言っていたこと。また4つ切りに伸ばした作品を全部取り出し「オレが映っている」と。写真を取り出したり、全部見るのは大変でしたけれども。また整理してファイルに収めるのも手間がかかります。暗室を作ってから5, 6年だというのに、たくさん引き伸ばしたもんだと感心いたしました。今から撮れと言っても、もう撮れないですからね……。ユニークな作品もたくさんあります。

 

 「本当に写真集を作るの?」と訪ねたとき、「早くしないと間に合わない」と笑いながら答えたのを、昨日のことのように思い出します。

 

○ 表紙へのこだわり

 

 表紙の写真は、モノクロ写真を始めた原点となる「京都造形芸術大学」での初めての課題、靴箱で作った「針孔写真機」で撮った自画像です。私としましては「あの格好で、しかも大学の入り口の傍らでよく40分間もじっとしていたもんだ」と感じましたが、当の本人は「よい写真が撮れた」とご満悦。文字もサインも自筆です。

 

作品1~16ページにわたり、円窓の作品が多い

 

 学校を退職後の3年間、廃校になった小学校の中にある校長会の事務局へ勤めており、その小学校にあった円窓を格好の場所として気に入っていました。光と影がドンドン変化していく姿を撮りまくっていたようです。どんな風にして撮ったのかを聞いても教えてくれませんでした。

 

影へのこだわり

 モノクロ写真は影が面白いと言っていました。傘をよく持たされて、嫌々ながらよくモデルをさせられていました。現像して影の位置が気に入らないと、何時間もかけてまた同じ場所へ行って撮り直したこともありました。

 

雪が好き

 

 岡山は雪は少ないのですが、たまにうっすらと白くなるときがあります。こんな時は国分寺、宝福寺、後楽園へと走り回っていました。厳寒の北海道へもよく行きました。彼は「冬だから寒いのは当たり前。雪が多く、寒いほどいい」とよく言っていました。

 

裸の自画像

 

 これは本当に驚きました。ここまでやるのかと……。頼まれてシャッターを押したが、本当に載せるとは……。急激にやせ細ったしわしわの体、いざとなるとこれほどに度胸が据わるものかと。日ごろ死ぬときは侍のように潔く、格好良く死ぬからな、と言っていました。本当に最後まで格好良かったよ!

 

孫たちへのメッセージ

 

 健太郎が入院する前日、全員が集まって食事会をした折に「じいちゃんのことを書いて持ってきてくれ、宿題だ」と、孫達に紙を渡しました。病気のことはよく分かっていない子もいたとは思いますが、親に急かされて持ってきました。

 

「オレのように飾ることなく、裸になってどんなことにも命がけで立ち向かい、強く生きろ!」と、残された私たちに強く訴えかけていたように、私には思えます。

 


○ 最後に、お孫さんから健太郎氏への作文を紹介します。