「小樽の誇りと歴史が結んだ愛」

 

 幸子は、アイドルだったんですよ 

 

夫婦インタビュー :

    棟 幸子(作家)

                  棟 徹夫(北見工業大学 名誉教授)

作家・棟 幸子(とう さちこ)とは

 

1926年 樺太豊原市に生まれる 

1942年 北海道小樽市に移る 

1970年 春より作歌はじめる 

1971年 潮音入社 太田青丘先生、絢子先生に師事 

1975年 新墾入社 足立敏彦先生、椎名義光先生、飯田哲雄先生の選を受く 

1984年 第一歌集「あをき翼」上梓 

1992年 第二歌集「青き海」上梓 

1998年 第一歌論集「青き玻璃」上梓 

2001年 第三歌集「もし雪が青く降るなら」上梓 

2007年 第四歌集「青き窓」上梓 

2016年 電子書籍版 : 第三歌集「もし雪が青く降るなら」上梓

2016年 電子書籍版 : 第四歌集「青き窓」上梓 

 

現 在  潮音、新墾、創北に所属。日本歌人クラブ、北海道歌人会会員

 

作家・棟 徹夫(とう てつお)とは

 

小樽生まれ。北海道大学工学部を卒業後、軍隊へ。航空技術中尉となり、北見工業大学 工学部 教授を経て名誉教授 授与。溶接工学の研究者としても評価が高く、論文なども数多く残している。

 

 

 

インタビュー   :海野 有見

写真 / テキスト:向田 翔一


夫婦インタビュー : 棟 幸子 (作家)、棟 徹夫(北見工業大学 名誉教授)


 

ー 幸子さんの作家活動について、少し触れさせていただきます。まず、幸子さんが短歌作っていることは全然知らなくて、本が出来て初めて知ったというお話を伺いました。短歌に興味がなかったんでしょうか。

 

棟 徹夫 (以下 : 徹夫)いや、歌はね、幸子と結婚する前、復員した時には、兄がいて文学系・国文系でして、小樽の教師をやっていた。その兄が歌をやっていたんだよ。僕が戦争から帰ってきてから、僕も歌やっていて、短歌会に入ったりして、実は幸子より長く短歌とはかかわっているんだよ。

 

棟 幸子 (以下 : 幸子):そうです。私は全然短いですから。

 

ー いつから短歌を始めたんですか?

 

幸子:そうですね、いつごろかしら。みなさんは学生時代とかからやっているでしょう。私は別に、ただ歌が好きで、私の兄がやっぱり戦死したんですよ。それからですね、気になったのは。残しておこうって気になったのは。戦争の終わりから。

 

ー 本になってまとまったものを見たときに、幸子さんの歌を素晴らしい、と思ったそうですね。

 

徹夫そう、なかなかだなと(笑)。まあ、それにつきますよ。

 

幸子私が歌をやっていることは、まわりの人は知らなかったと思いますよ。私も人には言わないし。それに、黙って自分で一人でやるものだと思ってましたから。父がそういう性格でしたので、その影響かもしれません。

 

ー ご家族の方も文学に関心があったのですか?

 

幸子兄は、幼少期の頃から文学が好きで自身でも書いていました。それを読んで、批評をするのが私の役目でしたね(笑)。

 

ー それはまた良い経験でしたね。ちなみに、小説家の京極夏彦氏が小樽出身だったり、、、日本のプロレタリア文学の代表的な作家 小林 多喜二や歌人 石川啄木氏が小樽で活動をしていたりと、小樽という場所昔から、文学が根付いているイメージがあるのですが、いかがでしょうか?

 

幸子:たしかに、そうかもしれませんね。小学校の時、先生が文学を広める運動をしていたように思います。歌を普及させる活動というのでしょうか。小学 5、6年生ころから、作文が好きな先生方がいて、子供に文学を教えるんです。実際、そこで声をかけてもらって、私も始めたんですよ。実際、大人が皆で文学や芸術を支えていこうという意識は、北海道全体としても意識は高い方かもしれませんね。

 

徹夫そういう意味で言えば、北海道は道立の美術館があって、それに協力しようという会員がつくった北海道美術館協力会ってのがありまして、理事をしばらく務めていました。小樽の市立美術館にも協力会があり、そちらも加入しています。

 

幸子私と、私の姉は、その美術館に併設してある小樽市立文学館の熱心な協力者ですよ。

 

徹夫:文学館には、石川啄木や小林多喜二、特に小林多喜二を中心に展示してあります。全国でも小樽にこういう文学館があるのは珍しいんじゃないかな。小樽は、彼らにとっても特別な場所ですから、小樽でないと見れない、そういうものを展示しています。それから、伊藤整ね。彼の書斎を復元したものが展示してあったりして面白いですよ。

 

※伊藤 整(いとう せい、1905年(明治38年)1月16日 - 1969年(昭和44年)11月15日)は、日本の小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。位階は正五位。勲等は勲三等。本名は伊藤 整(いとう ひとし)。日本芸術院会員。社団法人日本文藝家協会理事、東京工業大学教授、社団法人日本ペンクラブ副会長、財団法人日本近代文学館理事長などを歴任した。wikipediaより引用。

 

幸子それで、私たちは、文学っていうものに憧れていたし、好きだった。伊藤 整とかを覚えていくうちに、ここの文学館は、広まっていきました

  

ー そう言われれば、あのイサム・ノグチがデザインしたモエレ沼公園だって、公益財団法人が運営していますし、なんだか個の力というのをすごく感じますね。

 

 

小樽運河は、小樽の誇り


 

徹夫北海道は当時、炭鉱の町だった。今はほとんどつぶれてますけど。北海道は石炭の山だったんです。それを本州に運び出すのに小樽港があったんで、その拠点として、手宮に桟橋があった。今な無くなってますが。これはたいしたものでしたよ。小樽の誇りだった。そこに北海道中の石炭をつんできて、下に船があるからザーっと流して、小樽から全国、世界へ運んだんです。僕が子供の頃は小樽港は賑やかでしたよ。

 

ー 小樽は本当にきれいな町。とくに運河の周辺は、言葉にならない美しさがあります。

 

徹夫運河も昔から船で石炭ばかりじゃなく海鮮なんかも運んでいたんですよ。米とかも。それを倉庫へ担いでいくのが、人間で、港湾労働者が運んでいました。そのために運河を作ったんです。運河にそういう船を引っ張ってくるために。運河の周りに倉庫がズラーっと並んでいるでしょ。

 

ー はい、圧巻でした。

 

徹夫:あれはね、あそこに高速道路を作って、船なんかもういい、車でいこうと、運河をつぶそうという動きになったんです。これが有名な小樽運河保存運動です。

 

小樽運河保存運動…小樽運河は、小樽港が取り扱う荷量が多くなったため、沖合いで艀(はしけ)を使った荷揚げから艀が倉庫の近くまで直接行けるために建設した水路である。戦後になると港に埠頭が整備されて運河は使命を終え、運河周辺の重厚な木造石造りの倉庫群などの歴史的建造物は数多く取り残された。1966年(昭和41年)、モータリゼーションによって深刻化していた小樽市内の交通渋滞緩和を図るため、臨港線(現在の北海道道17号小樽港線と北海道道454号小樽海岸公園線の一部区間)全路線を6車線化する都市決定計画を行った。この計画には運河の埋立てと倉庫群の解体が伴っていたため、周辺の歴史的建造物を含めて保存に向けた市民活動が起こり、1973年(昭和48年)に「小樽運河を守る会」が設立した。10年以上に及ぶ議論が続き、臨港線は運河区間を残す一部が開通した。1983年(昭和58年)に「小樽運河百人委員会」を結成して約10万人の署名を集めるなど再度保存活動が盛り上がり、小樽市も北海道初の景観条例となる「小樽市歴史的建造物及び景観地区保全条例」を制定するなど姿勢が変わった(1992年には発展的解消した「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観条例」を制定)。なお、百人委員会は当時の小樽市長のリコール運動を巡る急進派と慎重派の対立により翌年に解散した。その後、慎重派が1984年(昭和59年)に「小樽再生シンポジウム実行委員会」を結成し、翌年に発展的解消した「小樽再生フォーラム」を設立した[2]。最終的に、運河の幅の半分を埋立てて道路とし、残りはポケットパークの配置や散策路を整備することで議論が決着して1986年(昭和61年)に完成した。

 

再生された小樽運河は小樽を代表する観光地になり、運河周辺も民間資本による投資が活発となった。小樽運河周辺は「小樽歴史景観区域」に指定されており、石造倉庫の再活用や歴史的建造物と調和したデザインの建物が新築され、ガラス・オルゴール工房や飲食店、海産物店、菓子店、土産物店などが立地している[1]。運河周辺を人力車で遊覧することができるほか、2012年(平成24年)からは運河を周遊する観光船を運航している。

 

徹夫当時の文化を愛する人間で、運河闘争に関わらなかった人なんで一人もいないですよ。東京の有名文化人も関わっていました。それでも強引にやられて、2/3が削られたんですよ。やっと残ったのが今の運河です。あれの 3倍くらいあったんだよ。倉庫側に運河があったんですよ。

運河をつぶそうと当時やっていた人たちが、今、運河がいいなんて言っているものだからおかしな話なんですよ。運河でお客さん呼ぼうとしているんだ。おおきな矛盾です。おこがましい。運河は小樽の誇りです。命です。

 

 

 

お二人が出会ったのは、、、


 

ー お二人が出会ったのは、その頃の小樽だったんですか?

 

幸子はい。小樽です。小樽闘争で盛り上がっている時に、私の叔父に会わされたんです。それが一番初めです。

 

徹夫:はい、見ず知らずの人でした。ただ、彼女の叔父がね、日本共産党の幹部だったんです。

 

ー それは知りませんでした(汗)。

 

徹夫:村上 由(むらかみ ゆかり)さん。小樽新聞社の記者だったんです。それでいわゆる戦争中の色々に引っかかって、札幌拘置所にだいぶ入っていたんです。今でいう高等裁判所。控訴院で裁かれて、入りました。

 

幸子私の叔父は戦時中、政治活動に尽力した人でした。その結果、長い間、拘置所に入れられていたの。叔父は立派な人だった。だから留守中に番をしたりしていました。

 

村上 由(むらかみ ゆかり)…日本共産党中央監査委員長。大正9年、札幌電気軌道の車掌となり、ストライキで解雇される。15年函館に全日本無産青年同盟支部を結成し、組織部長となる。この間、労働農民党に参加。昭和2年共産党に入党するが、3年の3.15事件で検挙され懲役5年に処せられる。出獄後も党の再建に力を入れ11年再度検挙され14年まで在獄する。16年の日米開戦で予防拘禁される。戦後ただちに党再建と労働組合の組織化にあたり、北海道炭鉱労働組合連合会委員長、北海道労働組合会議事務局長などをつとめた。24年共産党北海道地方常任委員となってからは党務に専念し、33年から中央統制監査委員をつとめた。

 

徹夫:幸子は、実は小樽の女性の中心的な活動家だったんですよ。労働組合の書記やったりね。で、戦争から帰ってきたらこんな感じになっちゃったっていうね。

 

ー さらに知りませんでした(汗)。あの時代に女性のリーダーとなると、当時のアイドル的存在だったんでしょうね。

 

徹夫そう。若い人たちもグループ作ってね。その中に、彼女は旧姓が田村っていうんですけど、田村幸子っていえば輝いていましたよ。

 

ー では、その活動の中で出会ったわけですね。

 

徹夫:そう。あの頃、若い人たちは、いろんな活動をやってたんですよ。そういう活動で出会ったんですよ。小樽でダンスパーティーをやったんです。市の議事堂で。その時、僕が看板を描いてと頼まれたわけ。それが評判よくて、その時に幸子がいた労働組合の書記長が、これは誰が描いたんだ!このブルジョワ的な絵は!と怒って破り捨てちゃったんだ。

 

幸子:そこで、叔父が、共産党で戦時中、思想犯で危険人物としてつかまった経緯もあり、誘いこんだわけです。

 

徹夫僕の方は、村上 由さんの方から、いい人だからと紹介されたわけですよ。今でも神様みたいに尊敬されている人ですからね、そりゃもう感慨深かったですね。その時の彼女は、確固たる何かがあるわけじゃなくて、雰囲気的に人を集めていたように感じていたね。その雰囲気に僕も引っ掛けられたんですよ(笑)。

 

 


プロフィール


棟 幸子(とう さちこ)

 

1926年 樺太豊原市に生まれる 

1942年 北海道小樽市に移る 

1970年 春より作歌はじめる 

1971年 潮音入社 太田青丘先生、絢子先生に師事 

1975年 新墾入社 足立敏彦先生、椎名義光先生、飯田哲雄先生の選を受く 

1984年 第一歌集「あをき翼」上梓 

1992年 第二歌集「青き海」上梓 

1998年 第一歌論集「青き玻璃」上梓 

2001年 第三歌集「もし雪が青く降るなら」上梓 

2007年 第四歌集「青き窓」上梓 

2016年 電子書籍版 : 第三歌集「もし雪が青く降るなら」上梓

2016年 電子書籍版 : 第四歌集「青き窓」上梓 

 

現 在  潮音、新墾、創北に所属。日本歌人クラブ、北海道歌人会会員


棟 徹夫(とう てつお)

 

小樽生まれ。北海道大学工学部を卒業後、軍隊へ。航空技術中尉となり、北見工業大学 工学部 教授を経て名誉教授 授与。溶接工学の研究者としても評価が高く、論文なども数多く残している。