「基調音の職人」 

 

「森の音」を聴きとる感性─ 

 

京都府在住・作家

神谷 佳子(かみたに よしこ)



 「森の音」とは何と響きの良い言葉であろうか。これは明らかに作家のドイツでの日々を投影しているタイトルであろう。というのもドイツという国の鬱蒼としていて暗い森の情景は、何がしかの創造性を駆り立てる効果があるからである。

文豪である谷崎潤一郎の名随筆に『陰翳礼讃』があるが、これは日本の伝統文化の中にある種の“暗さ”を発見し、それを美として認識したものであるが、それというのも「森の音」という言葉の音の響きに美しさを感じたであろう神谷氏の美的感覚を体験できる一書として、歌集『森の音』は密やかに存在している。いや、静かに読者を待っているような観があるのだ。

 作者はこう書く。「「森の音」は、私の生涯をとおして微かにひびく基調音のようなものである」――ここでの「基調音」とは作者のこころの奥底から響くべくして響いてきた叫びであると思う。しかしその「叫び」は決して他者を理解させたり、困惑させたりするような俗なものではなくて、ある種の“美”、それも自然の美なるものの通底に存在する重低音であったろう。だからこその、神谷氏のこころの深み、またいい意味での渋みが歌集に流れているのだろうと思われる。

 言葉無くしては、確かに人間は存在し得ない。しかし自然の音は、そうではない。ならば短歌としての言葉の響きに、この自然を、文化を乗せて生き抜こうとする作家の心意気を感じさせる歌集である。

 

 

文/菊地 道夫

 


 

○ プロフィールについて

 

昭和5年9月13日生まれ、波乱の昭和と言われますが、生まれてから昭和20年、太平洋戦争が終わるまで戦争が続きました。

 

 まず、昭和6年に満州事変が起こり、次いで昭和12年に日支事変、昭和16年12月8日、太平洋戦争が起こります。昭和20年8月に、広島と長崎に原子爆弾が落とされ、敗戦の日8月15日を迎え、私が生まれてから15年続いた戦争が終わりました。そのあいだ私は父の仕事の関係で、台湾に二度、住みました。人も産物も豊かで、とても住みよいところでしたが、二度目の渡台は昭和16年12月8日の太平洋戦争が始まった翌年でしたので、戦時下となり次第に空襲も激しく、住んでいた場所が台湾南端の高雄州屏東というところで、高雄には日本海軍の軍港があり、私の住んでいた屏東市には飛行場がありました。フィリピン作戦には屏東から特攻隊機が毎日飛び立ちました。

 

 その頃は、女学校(中学一年)と言いましたが、アメリカとの戦争でしたから英語は敵国語ということで教科から外されました。戦争が激しくなると、空襲のため、落ち着いて学校でも勉強が出来なくなり、軍の要請で飛行場の整備や食糧増産の畑仕事で、毎日が厳しいものでした。

 

 詩や短歌の好きな友人同士で、お互いに書いたものを見せ合い楽しみましたが、色はカーキ色で、彩りの華やかなものは一切禁じられ、戦争色が濃くなり、不自由な時代でした。

 そんな少女時代、植民地であった台湾で、軍隊・軍人、また台湾人と日本人(内地人と呼ばれました)との関係を見て、人の危うさ、もろさを感じ、それ故にこその優しさ、強さも実感し、台湾での少女時代の四年間は、私の人生観の基盤となっています。昭和21年3月に台湾高雄港よりアメリカの貨物船リバティ号にすし詰めに乗せられて、日本へと、広島の大竹に引揚げました。船の中で、また引揚げ中の人間の姿が、善くも悪くも目に焼き付いて、大きな教訓となっています。

 

 敗戦後の日本は、明治維新のようなもので、学校の制度も新制中学・高校と三年(前は女学校、中学校(男子のみ)と五年制)、そして新制大学四年となりました。私の世代は新制のトップです。男女共学もトップで、時代の先端を生きてきました。しかし民主主義のもとに新しい国をと学生ながら運動をし、貧しい時代でしたが志を持って勉強し、社会に発言してきました。女性の参政権や、男女平等の訴えなども、戦後の獲得したものの一つです。社会運動にも関わりつつ英文学を専攻し、また国文学の小田良弼先生の研究会や読書会で、歌人であり小説家でもあった「岡本かの子」の作品を読み、今もなお、深く関心を持つ作家のひとりです。斎藤史の気骨のある作風も好きですし、大西民子も魅力的な歌人です。

私の人生・作歌の基底音として絶えず影響していることは、この台湾での戦時体験と、結婚後、家族と共に二度渡独したドイツでの生活があります。この『森の音』は、二回目のドイツ生活をⅠ部では詠んでいます。夫と長男がドイツと関わりのある学問研究をしていますので、マールブルク、フランクフルト、レーゲンスブルクと住みました。本当にたくさんのことを知り、学びました。

 

 日独対訳歌集『光と影』はドイツの出版社より刊行され、2001年には朗読会でドイツに行き、これも楽しい交流でした。『森の音』より作品は選ばれて収録されています。

俳句はたくさんのドイツ人がしていて盛んですが、短歌は七七と長い部分がむつかしいようです。しかし現代は翻訳が特に英語で行われ盛んですし、私の講座では仏語の対訳を出した人もいました。広く知られることはとてもいいと思います。

 

 言葉は心と思っています。言葉が精神を作ると言ってもよいでしょう。ですから言葉が異なれば、精神文化も少し異なります。その国の言語の持つ微妙なところは翻訳しきれないとは思いますが、解りあおうと努力することはとても大事です。

 英語教育が盛んになり、話すことが上手な人も増えました。日本の歴史や文化をよく勉強して、それを伝えられるくらいに上手になってほしい。社交だけではなくて。

 

 八十七年生かされて、年を考えれば“よくまあ”と驚きますが、日常、年齢は忘れて暮らしています。そして、年を重ねることも良いものだとありがたく思います。人も事柄も、よく見えるようになりました。相対すれば慮ることなく真っ直ぐにその人が見えると言ってもよい。怒る人、批判する人、愚痴る人、お世辞を言う人などが聞いていてその芯がすっと分かるのです。肩も軽くこころも軽くなった、そんな気がして毫も悪くないと思います。

 

 常に胸の中に、その人やその言葉、その動作を思い浮かべるだけで元気が出て立ち直れる。そんな「その」存在をみつけること、みつけるために努力すること。何に出会っても、対するものの真を見ようとすることは大切だと思います。良い歌、良い人、良い言葉ひとつを探すために生きていると言ってもいいでしょうか。

 

 短歌であれ小説であれ、表現したものはどんなに技巧を凝らしても作者がでるものです。一冊一冊に込める思いがあってのことですし、歌も俳句も一首、一句が作者です。考えれば恐ろしいことですが、覚悟して書いています。責任もあります。自分を確認し、見つめるためにも表現は決して無駄ではない。自分を表現する出口を持っていることはよいですよ。

 

 今年は第五歌集を出版するつもりで準備しています。