「とにかく家族とご縁を大切に」

 

 波瀾万丈の人生。真心を込めたお話します 

 

インタビュー :

筑紫 昭和 (元 実業家)

 

1927年、熊本県生まれの元実業家、筑紫 昭和(ちくし てるかず)。

 

筑紫は、1日 300円で生活し、30年間洋服も買ったこともないが、以前は実業家として大活躍していた。

 

筑紫の 79年間は苦難の道であったが、誰一人迷惑を掛けていないという事を是非とも心に銘記して欲しい。

 

更には彼は、人生の後半で財をなすための蓄積に心懸け、その目標も達成する事が出来たのであるが、反面、家族関係の構築という、人生に於ける最も重要なテーマについては失敗を認めざるを得ないのもまた事実である。

 

その原因の一つは愛しい彼女の存在である。彼女は私にとって天使のようなもの。私を心から満足させてくれたのも勿論であるが、家族には美味しい手料理を、そして細かな身の回りの処理まで手際良くこなす極めて繊細な神経の持ち主で称賛の極みである。

 

彼女は打算でなく純粋な心で私に接近し、彼女の人生の総てを私に託した。一途な思いであったに違いない。私もそれを受け入れる事によって更に重厚な深みのある人生を味わう事が出来たのである。

 

それはまた、はじめて人の情というもの、今まで忘れかけていたものに接する事が出来た最初の経験でもあった。

 

私はこの事を契機とし、サラリーマン生活を捨てた自主独立の方向へと大きく舵を切る事が出来て、今日の成功へと導かれたのである。しかしながらこのような人間関係が絡む事によって事態をより複雑し、私の望んだ家族関係は崩壊し無残という外ない。

 

将来に、限りない希望のある皆さんが、彼の人生航路を参考に、同じ轍を踏まぬよう、心から希望するための授業である。 

 

 

機転・動転・流転: 愛しき我が人生の軌跡 Kindle版

筑紫昭和 (著)

 

民族の歴史である国の歴史については、人々がいつの時代に生まれようと、過去及び現代について詳しく知らされ、その成り立ちについて深く熟知する事が出来るのである。

 この事によって先祖に対する崇敬の念が湧き上がり、ますますこの国を護って行かねばと、固く決意を新たにするものである。

 しかし一方、この国を構成する個人となると、その家族の拠って立つ歴史については、不認識な場合が多く、そこからは家族に対する崇敬の念は生まれて来ないのである。

 現代社会に見られる毎日起こる凶悪な殺人事件をはじめとする犯罪は、まるで「たが」の外れた桶のようなもので、その止まる所を知らない。

 私を含めて宗教心の少ない日本人にとっては家庭での歴史を知る事は極めて大切で、それは単に過去を知るという事に止まらず、未来に向かっての方向を示すものに外ならないほど、重要なものである。

 特に子供達となると、生まれて以降の事は生活を共にし、実感もあるが、生まれる以前の親達の二十年、あるいは三十年については、全くといって良いほど、知らされていないのが実態である。

 一方この人生に於ける生涯の二分の一、または三分の一にも当る歳月は、個人としての人となりの歴史であり、極めて重要な部分と考えられる。

 そこでこの重要な部分での、私の生きざまの経緯と先祖から受け継いできた重要な歴史を文書として残し、これを子供達に伝える事は、それを子供達が真似る真似ないは別として、なんらかの親の生きざまに直面し、感じ取るものがあるはずである。

 その結果に対する判断の良し悪しは子供達に任せて、真実をあるがままに伝え、何か得るものがあればまことに幸せという事になる。

 ここに我が起伏多き波瀾万丈の人生を、真心を込めて贈る事にする。

 

 


インタビュー : 筑紫 昭和 (元 実業家)  


筑紫 昭和(ちくし てるかず)

 

1927年、熊本県生まれ。早稲田大学第一法学部中退。

チェース・ナショナル銀行、日本NCR株式会社、Nestléを経て、独立。カー用品専門店を経営し、3年で関東 3位の売り上げ実績となる。その後、目標だったレストランを木更津で経営。現在は引退し、1日 300円生活を送りながら、執筆活動に勤しむ。

 

 

インタビュー  :海野 有見

写真 & テキスト:向田 翔一

 

幼少期の極貧生活


 

ー それでは、早速、授業をお願いします。

 

筑紫 昭和 (以下 : 筑紫):私の先祖は、江戸時代までは、とても広い土地があったわけなんですが、明治になってルールが変わるでしょう。そっくりそのまま無くなりました。

 

ー 明治維新ですね。

 

筑紫:そう。だから当時、侍やっていた方は随分、貧乏したんですよね。それから農業やったりするんですが、実はあの当時、大きく成功したビジネスがあったんですが、何だと思いますか?

 

ー ん〜、なんでしょう。米やお酒関係でしょうか。

 

筑紫 : にしき鯉の養殖なんですよ。

 

ー なるほど、その手がありましたか。

 

筑紫 : そう、ある程度のサイズになると、数百万円で取引されますからね。そんな中、我が筑紫家は、そういう時代になるまで、のんびりやってたもんだから、勉強などもほとんどしていなかったわけです。そして、父は、手に職をという思いでカメラの勉強をはじめました。当時、人気があったというのもありますしね。ただ田舎ですから、お客さんもいないんですよ。

 

ー そういう事にお金を使える時代ではなかったと

 

筑紫 : 私が幼少の時は、日本は本当に貧乏だった。それこそ、言うに言えないくらいね。もちろん、アメリカだって貧乏でしたけど。

 

ー 世界恐慌の後ですもんね。

 

筑紫 :そう。それで、 日本だとお米が一升で、30銭で買えた時代だよ。

 

ー 30銭!?って。

 

筑紫 : 1円が 100銭だね。

 

ー なんだか想像できないです。

 

筑紫 : 安く感じるでしょ(笑)。それでも大変だったんだよ。我が家は、とにかく貧乏で、お米もたまにしか買えなかったから、親は買うのが恥ずかしいので、私に買いに行かせてたね。それを、おじやにしたり、すいとんにしたりね。そんな食事ですよ。物も圧倒的に少なくてね、当時、政府の指示で移住した人もかなりいたしね。ブラジルやペルー、ハワイなど、その方たちがとにかく頑張った結果、大きな農場になったりしてるわけなんだよ。ブラジルの木がバンバン生えてるところに連れていかれて、ここがあなた達の場所だよって言われるわけね。

 

ー 食料は当然ないでしょうし、伝染病などは付きまとうわけですから最悪の状況ですよね。

 

筑紫 : そういう状況だから、父親も写真で食っていけないってことで、日光へ移住して食堂を開くわけなんですよ。

 

ー なぜ日光へ?

 

筑紫 : 日光には精銅所があったので、そこの労働者に来てもらえるような食堂を開いたわけです。

 

ー なるほど、国営の精銅所となると相当数の工員がいますからね。良いアイデアですね。

 

筑紫 : ところが、全然ダメだった。工員のお給料はとても安くて外食などできなかったんですよ。結局、1年で店じまい。それでも、あきらめずに、逗子へ行って、また写真屋をやるわけですが、そこもまた 1年で終わりました。それで今度は、軍人がいるところが良いんじゃないかってことになり、横須賀へ行ったものの、軍人だって安月給ですからやっぱりダメ。その次が木更津だったわけですが、当時、常磐園という割烹料理の旅館が海岸近くにあったんですよ。姉夫婦がそこの経営を任されたのをきっかけに、一緒についていって落ち着いた感じです。

 

ー 何歳ぐらいまで生活は苦しかったですか?

 

筑紫 : もうずーーーっとですよ。さらに学校が変わり過ぎて、故郷と呼べるような場所もないし。だから、絶対に家を立て直さないといけないと思って、勉強もしたし、とにかくアルバイトもしました。

 

ー 具体的にはどういったアルバイトをされたんですか?

 

筑紫 : 選挙の応援や大豆の運搬、最後に中学校の講師をしていた時に終戦を迎えました。当然、飛行場は米兵が全部占拠したわけです。そうすると、そこで、日本人労働者を使っていろんな仕事をさせますから。その中で、通訳兼スーパーバイザーのテストを受けて仕事を手に入れました。

 

ー 相当な倍率だったでしょう。

 

筑紫 : ただ、学生だったから、労働者の 40代、50代の方々をまとめられなくてね(笑)。

 

ー それはわかります。

 

筑紫 : ただ皆さんを見てると改善しなければならないことも多々あったので、積極的に司令官にかけあっていってね。私にできることは、そこなのだと思ってましたし。その結果、ある一つの提案が通って、皆さんの労働が少し楽になりました。そしたら、アイツやるなってなりまして、まとまりました(笑)。

でもすぐに大学卒業に向けて、色々準備が必要になりましたので、働いてばかりもいられず。

 

ー 卒論など色々ありますからね。

 

筑紫 : でもアルバイト代でなんとか学費を工面してきましたから、卒業までの費用が工面できないのも問題だと。

 

ー いまのように借りる場所もないでしょうし。

 

筑紫 : 結局、お金がどうにもならなくて、大学は卒業できなかったんですよ。あれはさすがに悔しかったね。まあ、でも仕方ないってことで、東京で営業職に就いたんですが、交通費なども実費負担で、固定給なし、インセティブのみだったので、なかなかうまくいかなかった。今だと考えられないでしょ、この条件(笑)。

 

ー そうですね(笑)。

 

筑紫 : これはいよいよ人生厳しいぞ、と思いました。そこでようやく僕にもチャンスが訪れたんです。

 

 

暗闇からの脱出


 

筑紫 : チェース・ナショナル銀行っていう丸ビルの中にある会社が欠員が出て 1名募集がありました。

 

ー すごいですね!今、買収などで、名前は変わって、いまは JPモルガン・チェース・アンド・カンパニーですよね。それはビッグチャンスですね。

 

筑紫 : そうそう、それで即採用でしたね。面接官と妙に馬が合った。こんなラッキーなことはそうそうないよね。それで、私の格好が汚いってことで、スーツや靴を全部揃えてくれて無事入社しました。これは、私の命を本当に救ってくれた出来事でした。これがなかったら、住む家も食べる物もなく路頭に迷っていたと思いますし、精神的にもギリギリだったと思います。

 

ー 。。。

 

筑紫 : 本当に感謝です。今、思い出しても本当に涙が出てきます。。。

 

ー はい。

 

筑紫 : 当時、コッペパンを朝昼晩の3回に分けて食べてました。それが突然、同世代の給料の 3倍くらいになったわけですから、住まいも移り、やり直し生活がようやく始まったんです。これからだと思いました。

 

ー 確かに、、、これまでが本当に過酷な道のりでしたよね。 

 

筑紫 : 外国銀行への勤務を機に屋根裏部屋を出て、住まいを西荻窪へ移す事になりましたが、やはり格安の部屋を探すため、まともな貸し部屋などある筈もなく。仕事は一応安定しましたけど、戦後の不安定な社会情勢を考えるといつまた、どんな変革が起きないとも限らないと思ってました。

 

ー 懸命ですね。調子に乗るとろくな事がありませんから。

 

筑紫 : そうですね。贅沢は考えず独り身の気軽さから雨露が凌げればそれで良い、という事で今度はサラリーマンが借りている借家の一室でした。収入の安定した私は休まず足掛け五年間、一生懸命、勤務に励みました。しかしこの間、お金の番人である銀行員に特別面白い話がある筈もなく。。。

 

ー あら、心に余裕が出てきましたね。

 

筑紫 : はい。淡々とした毎日であったが、そんな時、ふと私の心に小さなさざ波が起こりました。というのは銀行には会計処理のため、会計機は欠かせないものです。この会計機は、当時NCR社のものが独占的に使用されていました。そしてその会社の営業マンと技術者が定期的にアフターサービスのため訪れており、私は彼等といつしか親しい間柄になっていった。何とはなしに会社の事情を聞いてみると仕事の内容は確かにバラエティーに富んでいる。そして何よりも良い事は給料が高い。その時、私には別の世界が開け「これだ」と思ったんです。更なる発展を求めてNCR社の採用試験を受け、採用。総てが予定通りに進展して順調でした。仕事も軌道に乗り、収入も安定した状態が五、六年も続いたところで小さな一戸建てを借り、妻を迎えて家庭を持つ事になった。すぐに長女も産まれた。

 

ー いやあ、本当によかったです。一時はどうなることかと。

 

筑紫 : しかし、妻は喘息を発症し、次第に妻とは折り合いが合わなくなる。毎日厳しい経済戦争を勝ち抜いている私にとって家庭での憩いは妻の愛情の籠った料理であり、愛情の籠った夜の生活がほしかった。

 

ー さらに満たされたくなってしまったんですね。

 

筑紫 : すれ違うストレスが、妻の喘息をさらに悪化させた、。治すには転地療法しかないとの事で、仕方なく地方への転勤を申し出た。

 

ー 悪雲が暗雲が立ち込めてきましたね。

 

筑紫 : そう、それが、愛人、離婚、破滅のはじまりだった。

 

ー 急に重くなってきましたね。

 

筑紫 : 一度踏み外した人生はそう簡単には戻りません。その後、私は、ネスレという会社に転職し、その後、独立しました。長い人生には、本当に色々なことがあります。特に人間関係は、とにかく気をつけなければなりません。お互いにとって、失った信頼関係は、そう簡単には戻りません。

 

 

独立


 

ー お仕事の方はどうだったんですか。

 

筑紫 : ネスレを退職し千葉市内のホテルにて一夜を明かした時のこと、朝食をとりながら新聞を開くとまず目に飛び込んで来たトップ記事は目を疑うようなパール関連会社の倒産の記事でした。私は、この会社に千葉での専属販売権を退職金で購入し、独立を考えていたので、私はその足で神田にある本社へ乗り込みました。

 

そこには既に幹部の姿はなく、従ってあの貴重な 50万円がフイになると共に私は失業となった。

 

手持ちの資金を全部なくした私は、千葉市内に借家を借りそこを本拠に資金なしで出来る商売を考えた。折しも世の中はモータリゼーションの波が少しずつ押し寄せる気配を示し、若者達が競って車に熱中し始めた頃です。

 

「これだ」とばかり閃いた。

 

直接車に関連する商売をしようと、その筋の問屋に当ってみた。すると商品は納入後 60日払いで決済してくれるとの事で、後は店舗さえ用意すれば明日からでも商売が出来るわけだ。とはいっても店舗を用意すればそれだけで数百万は掛かってしまい不可能な話だ。

 

そこで一計を案じた。

 

ポンコツの廃車バスなら 1万円も出せば簡単に手に入る。

その筋に当ってみると適当な車体が見付かった。早速椅子を取り払って貰うと中は案外に思ったより広さがある。

 

あとは適切な設置場所だ。

 

車の通行量の多い国道筋のレストランに目をつけ月 4万円でバスを設置して貰う事に成功した。43歳での新しい仕事の出発です。開店には父が花輪を贈ってくれて駆け付けてくれて本当にうれしかった。父の花輪一つだけの淋しい門出です。車内には棚を作って商品を山程、積み込んだ。これで客が来なければ倒産以外にない。決死の覚悟で丁、半を賭けたようなものです。自信は全くないのだが販売する商品はカーアクセサリーと音楽テープ。この時代のカー用品といえばガソリンスタンドで細々と、ついでに売られているくらいで、全く消費者のニーズに応え切れずにいるのが実態であった。バスを使っての商売だけに目立った存在となったのか、開店早々に客が立ち寄るようになった。売上もぐんと増え、三年目になると他に例がないだけに関東でも三本の指に入るほどに成長していた。

 

ー 素晴らしい勢いですね。

 

筑紫 : お客様のお引き立てがあって、毎日多額の売上となり、レジにお金が入り切らずダンボール箱を用意していたほどです。しかも私一人での商売なので経費は掛からず、本当に笑いが止まらないとはこのような事を指すのであろう。

 

店で毎日入る現金は当面必要な分を除き全額株券に換えたが、その金額が開店以来 3年で 1,300万円にもなっていた。その理由は現金が手許にあれば何かと理由をつけて使いたくなるもの。株券ではすぐには使えないから。

 

これがその目的です。

 

新しく出発した私の事業は、順調な発進となった。しかし、開店 4年目頃になると私の店の販売量に目をつけた問屋が直営店を出店し、直販方式に切り換えて来たのです。大型量販店の出現です。そして 5年目となると大型店の出店が相次ぐ中、私の店の売上も下落の一途となり、この辺が潮時とばかり店を閉める決意をするようになります。株券で保管していた 1,300万円の出番です。

 

ー と、いいますと?

 

筑紫 : 今までの仕事はレストラン経営のための資金集めであり、N社の社長であるMr.Cとも約束した通りやっと最終目標に到達した思いでもう一頑張りという所まできました。

 

 

人生最大の大勝負


 

筑紫 : 物品等の販売に関しては従来からいわれている通り、いわゆるナショナルブランドとプライベートブランドの二種類に大きく分別出来る。Nブランドの代表的なものといえば、凡ゆる種類の電気製品等々であり、Nブランド品の販売に関しては競争店間の争点は専ら価格の競争となり、その裏付けとなる巨大なる資本が物をいう事になり、資本金のない私にとってはまことに不適当な商売という事になる。一方Pブランドの代表格は飲食業であり、この業界では原材料の仕入れから始まって製造販売までを一貫して行い、店舗の構成から宣伝広報まで、経営者の思想を思う存分、発揮する事が可能であり販売価格の設定も自由です。

 

従ってたんなる販売業とは大いに異なりその目指す利益も極めて大きい。

 

大から小まで、その業態は形の差はあっても大は大なりに、また小は小なりにたとえ経済が不況であっても決して潰れ去る事はない。それは各自がそれぞれのプライベートブランドを持って営業を継続しているからに外ならない。資本金の少ない私が、最後の勝負の運命をかけたゆえんもここにある。

 

ー なるほど。

 

筑紫 : 人生これが最後と、多くの運命のかかった最終目標であるレストラン経営への挑戦は、まずそのための駐車場を含めた広いスペースが必要であり絶対条件。幸い国道一二七号線沿いに山林ではあるが、約400百坪の売り物があるという知らせでした。しかし君津との事で昔からどんな因縁があるのか見当もつかない。悪い因縁のある土地を買って失敗でもしたら、今までの努力が水の泡という事になる。

 

それは絶対に避けねばならない事でした。

 

藁をも掴む心境で、ある知名度の高い占い師に占って貰う事になった。土地の場所や状況を全く知らない占い師が言った事は、大変良い土地なので購入は吉であると。ただし真南に向かって数体の地蔵があるからこれを大切にするようにとの事であった。以前一度見た土地ではあるが確認のため、再度訪れてみると確かに占い師の明言通り、真南に向かって三体の地蔵尊があった。

 

私は即時、この土地の購入を決意した。

 

しかしこれからが大変で生命をかけた闘いとなるわけであった。何しろ新規に店舗を造るのに加えて、山林であるから山を崩して開発造成という難事業を控えていた。全く無謀な総費用が 1億円にも及ぶ借金であった。

 

ー 結構いきましたね。

 

筑紫 : 店舗予定地の立地条件といえば、国道とはいうものの空き地がかなりの数で点在し店舗は一軒の古びたラーメン店と焼肉店がある程度で、民家もまばらな不毛の土地といった状況でした。

 

近隣が農家であるため、雑排水を流すにも浄化槽を通して 100メートルほど先の小川に流すにしても、水利組合の許可が必要となり、またそのための排水管を地中に埋めるには幾つもの土地を通過するため、各地主の許可が要るといった具合でした。

 

店舗も 65坪として完成しコックも 2名、ホールと洗場等交替要員を含めると 12名、揃ったところで昭和 49年 9月、私 46歳の時の人生最後の勝負でした。

 

ー ついにこの時がきましたね。

 

筑紫 : 開店してみると私が予想した以上にそれはまるで不毛の砂漠にいっぺんに花が咲いたように千客万来で従業員が食事は勿論、水を飲む暇もないほどの繁盛振りとなりました。私の銀行に対する支払いだけでも毎月 120万円、店内設備費、土地造成費、造園費、等々は分割により毎週支払い、従業員の支払いが毎月 80万円となると全く息を抜く暇もない押し寄せる返済です。

 

借金返済目標の 8年間、果たして維持継続出来るか心配でした。更に子供達の生活費の 25万円は、たとえ私が食べなくとも、援助し続けなければならないお金でした。

 

この時、私は自分の身の回りに関する物は一切購入しないと決め、事実 30年間この方針を貫き通しました。靴等も先端の口が開いて水がしみ透るようになっても躇ってそのままで通したほどです。又衣料品に至っては 30年間、何一つ購入した事はないし今もそのままで時を過しているのが実態です。腕時計も 35年前バスで営業していた頃買ったものであるが未だに私の腕にある。最近は正確な時を刻む事もままならぬようになっているが、私と運命を共にして来たこの時計には何か未練があって捨て去る気にはならない。

 

ー 最後の大勝負、覚悟が違いますね。

 

筑紫 : 他人に迷惑を掛けるのだったらその前に自分が慎むという考えです。

 

ところが 3年後、運転資金不足となり債務として残った莫大な金額の返済、従業員の給与、問屋への決済等々を考えると、ここで力尽きて倒産かと半ば覚悟しかけた時、毎日お参りを欠かさなかった地蔵尊の事が頭の中に閃いた。

 

そうだ駄目で元々、藁にもすがる思いでいつしか地蔵尊の前に立ちつくしていた。そして人に話し掛けるように、何とかこの苦境を助けて頂けないものかと語りかけたものです。全く倒産直前の状態です。

ところが一週間ほど過ぎたある日、奇跡が起こった。

 

ー 奇跡!?

 

筑紫 : 忘れもしない夏の日の夕方、中年のご夫婦が見えてコーヒーを注文したのです。すると接待係の女性が私の処に飛んで来て、「お客様が経営者に逢いたいと言ってます」と告げました。私が直ちに伺ってみるとそのお客様は開口一番「開店間もないようでなかなか大変でしょう。一寸厨房を拝見させて貰っても良いですか」というのです。珍しいお客様もいるものだと思いながらもコックが働いている厨房へご案内しました。するとこの方は帰り際に名刺を手渡しながら「これだけのお店を経営するとなると資金面でもなかなか大変でしょう。何かお困りの時は私に相談して下さい」とまるで私の心の中を読んだようなお話でした。

 

ー なんとも日本昔話に出てきそうな奇跡ですね。

 

筑紫 : 親族さえ保証人となる事を拒否しているのにまさか見も知らぬ他人様がと、念頭にも置かず日々働いていたのです、足りないものは足りないので、こうなったら恥も外聞もない、一刻も早くあのお客様にお願いするしかないと思いました。行き詰まった経営に勇気を振るって「お言葉に甘えるようで申し訳ありませんが何とか助けて頂けないでしょうか」と話を切り出したのです。

 

ー そしたら?

 

筑紫 : 「幾ら要るのですか」と。

 

ー おお、すごい。

 

筑紫 : 私はすぐに「300万円はどうしても欲しいのですが」と答えると、お客様は「判りました」。この会話の以降も私はこの話を信じて良いものかなあと、普通では有り得ない話として信じられず何か夢でも見てるような気分のままだった。しかし、それから 10日ほどしてお客様から電話があって「お金要らないの?」との事。私は「是非共お願いしたいのですが」と言うと、「銀行で待っているから印鑑を持って取りにいらっしゃい」。まるで仏様のお声を夢の中で聞いているような気持で銀行へと車を走らせたました。銀行のカウンターの前でそのお方は証書一本とらず、また何の条件も付けずに 300万円を手渡してくれたのです。私は救われたのです。

 

しかも見も知らぬ他人様によってですそのお方は荒木様といって、詳しい事は何一つ伺えずまた、私についても何一つ詳しい事をお尋ねにならぬままでした。

 

ー まさに日本昔話の世界。

 

筑紫 : この荒木様のお陰で今日の私が有り、また子供達が無事存在する。永遠に忘れられぬ人恩あるお方です。最後に私は、また人に救われました。この記事を、そして、私の本読んで頂いた方々には、是非とも人の出会いだけは、とにかく大切に大切に、とお伝えし、このお話を終わらさせていただきます。ありがとうございました。

 

 


プロフィール


筑紫 昭和(ちくし てるかず)

 

1927年、熊本県生まれ。早稲田大学第一法学部中退。

チェース・ナショナル銀行、日本NCR株式会社、Nestléを経て、独立。カー用品専門店を経営し、3年で関東 3位の売り上げ実績となる。その後、目標だったレストランを木更津で経営。現在は引退し、1日 300円生活を送りながら、執筆活動に勤しむ。