スポーツ心理の職人」 

 

ー確かなる知見に基づくスポーツの意義ー 

 

青森県在住:作家・弘前大学名誉教授

麓 信義(ふもと のぶよし)

作家名・ペンネーム

杉崎 隆晴(すぎさき たかはる)



電子書籍:500円(税込)
電子書籍:500円(税込)

 スポーツの意義を論じる際に特に気を付けなければならないこととは、その社会的・心理的意義をも視野に入れた総合的な見解を示すということである。即ち「スポーツを行うことはよいことだ」というような場当たり的な意見ではいけないのであり、スポーツの本質を見据えた確固たる論理形成をこそ、その信念とせねばならないのである。

 

 その視点から書かれた本書『政治・経済、そして、スポーツ 競争の現代的意味』は、スポーツにおける哲学的・倫理的(道徳的)意義、社会的意義、心理的意義が総合的に論じられており、目の覚めるような見解が散りばめられている。「スポーツとは何か」「今、何故スポーツなのか」「スポーツを行うことにはどういった意味があるのか」といったスポーツに対しての哲学的疑問にまで着手しており、スポーツを単なる「純粋に勝敗を争う競技」とか、「健康増進のための手段」としてのみ捉えてはいけないということが分かる。 

 

 スポーツとは、具体的には世界とのCommunicationであり、またcommon senseである。したがってスポーツが健全に発展することと、全社会的な信頼関係が築かれることとは平行しているはずである。その意味からCommunityとしての政治・経済関係をも視野に入れた普遍性のあるアプローチが重要となってくる。

 

 それと共に、スポーツにおける心理的意義も重要である。スポーツの語源である「気晴らし」に依拠して、スポーツを単に「ストレス解消」のための手段と単純に考えるのではなくて、攻撃行動や欲求階層(マズローによる)といった心理学理論を踏まえて考察するとともに、フェアプレイ精神やアマチュアリズムとかいった哲学的分野にも踏み込まなければならない。多くの心理学者は、サイコロジーの語源が、精霊の中でも特に人間の精霊を扱う哲学的研究分野を表す言葉であったことを忘れている。

 

スポーツとはそんな奥深い、哲学的な世界観なのだということを本書はくまなく教えてくれるのだ。

 

 つまり本書は、スポーツの社会的意味からスタートし、最終的にはそれを心理的意味へと拡張する形で書かれている。その際、「競争」「興奮」「非暴力的」「道徳的」「アマチュアリズム」といった概念を導入し、理論構成を確固たるものにしているのである。実に驚くばかりだ。

 

文/菊地 道夫

 


Q & A


 

○ プロフィールについて

 

―生年月日を教えてください。

 

麓:昭和23年9月10日東京生まれ。神奈川県の逗子市池子という、当時は田んぼが周りにある地域で、幼稚園から5年生まで過ごしました。

 

―幼少期はどんな少年でしたか。

 

麓:初めての通信簿(だったと思う)が体育以外すべて3段階評価の「3」で、周りのおばさん達に「すごいね」と言われて、「努力したわけでもないのに何ですごいと言われるのかな」と思った記憶があります。体育が普通を意味する「2」だったのに、現役時代は「体育」に関係した仕事をしていました。その通信簿に「誰とも仲良くしています」と書かれていましたが、なぜか「友達の好き嫌いをしてはいけない。誰とも仲良くしなければいけない」という考えにとらわれて行動していた気がします。何でそう思っていたのかはまったく分かりません。ある意味では変な「先入観」なのですが、そう考えていた記憶が中学時代には思い出としてありました。

 

 それから、2年生から4年生まで毎年骨折していました。2年生の時は滑り台の途中から横へ飛び降りて手首を骨折、3年生の時は後ろから来た自転車にひかれて足首にヒビ、4年生の時はランドセルをしょったままで教室の窓から廊下へ飛び降りて左上腕の骨折でした。最後の骨折の後遺症で、肘が完全に曲がらなくなり指先が肩につきませんので、軽度の身体障害者です。この頃の逗子市は、周りに田んぼがある田舎で、避暑地としての別荘もいくつかあるところでしたが、裏山や路地を舞台に一日中外遊びをしていました。また、子どもが多く、幼稚園から6年生ぐらいまでの子どもが、公園や空き地で群らがって遊んでいました。ですから、ここが私の心のふるさとです。

 

―ご家族との思い出のなかで、印象深いものを教えてください。

 

麓:母は優しかったですが、兄弟が2カ所に別れて生活している期間もあり、家族とのいい思い出はあまりありません。でも、幼稚園の頃、転居のため、乳飲み子の弟のみを連れて先発していた母のところへ何ヶ月か後に行った時、玄関で迎えて抱き上げてくれたことはずっと覚えています。

 

―学生時代の得意な科目、苦手な科目を教えてください。

 

麓:大学は文系の学部に進学しましたが、中学・高校時代の得意科目は数学と理科及び地理で、漢字が一番の苦手でした。でも、高三の模試では、国語の成績が一番よかったです。

 

―学生時代は何を学ばれていましたか。また、現在の活動に生かされていますか。

 

麓:中学3年の頃から心理学に興味を持ち、南博や宮城音弥などの書いた岩波新書を読んでいました。そのまま、教養学部時代までは、主に心理学の本を読んでいました。専門課程は教育学部の「体育学健康教育学科体育学コース」という長い名前のところでした。そこでは、私の専門である「人間はどのように運動動作を学習するのか」という研究以外に、運動生理学(運動するとなぜ心拍数は上がるのか)やバイオメカニクス(どうすれば力学的にみて速い球が投げられるのか)という理系の学問から、体育哲学(プラトンは人間の教育に体育がなぜ必要だと考えていたのか)という文系の学問まで、幅広く学習しました。

 

 これらは、「体育学」と総称される研究分野で、「人間が運動すること」を研究対象として総合的に考える学問です。このような広い分野の知識は、人間と社会を総合的に考える現在の執筆活動の源になっていると思います。

 

―どんなお仕事をされてきたのか、教えてください。

 

麓:私のホームページを見ていただければ分かりますが、本職は教員養成学部の教員で、小学校教員や中学校保健体育教員になる(と思って入ってくる)学生に、体育心理学とサッカーをメインとして教えていました。ただし、体育学部と違って学生数が少なく教員数も少ないので、それ以外の関連分野も教えていました。括弧でくくった表現は、建前はそうですが18歳での選択はそれほど確固としたものではなく、進学後に思いを変える学生も少なくないからです。それでも、文部科学省は、「税金の無駄だから全員を教員にせよ」というおかしな行政指導をしています。文部官僚の何割が大学入学時に文部科学省に入ろうと思っていたかを考えてみれば分かるはずです。アメリカのように入学後の転課程が簡単にできる制度になれば文部科学省の言い分も通るので、大学側にも問題はあるのですが・・・。

  

―制作活動以外にされている活動があれば教えてください。

 

麓:現在は退職していますが、サッカーを教える後任が採れなかったのでサッカー部の監督をしています(サッカーの授業は非常勤任せ)。男子は時間があれば試合について行くだけですが、女子は、私がいなくなると廃部になるので、初心者指導のプロとしてキック等の実技指導もしています。

 


 

○ 作品について

 

―スポーツ分野の専門家と存じておりますが、今までどのような本を出版していますか。

 

麓:専門分野の本は、共著も含めて10冊以上出していますが、本著と関連する著書は『新しいスポーツ心理学入門』で、「一種の日本文化論にもなっていて興味深い」というコメントを読売新聞からいただきました。本書は、その第1章の内容を膨らましたものです。それ以外に、評論家としては、国立大学のあり方を批判した本がありますが、これも、「日本文化が抱える問題点」という視点から考察しています。

 

―スポーツの中でも特に「競争」をキーワードに執筆されたように感じましたが

 

麓:社会における人間の活動で最も多くの人間が関係していて皆が興味を持っている分野は、政治・経済・スポーツです。そうすると、人間と社会を総合的視点から考える場合、「なぜ、フェアプレイの精神がスポーツのみならず経済活動でも必要なのか」という問いに対する回答が必要であり、そのためには、それらの分野を「競争」をキーワードとして統一的に理解することが大切だと考えたからです。「競争」は、「戦争」と違って、ルール厳守が大切です。国際スポーツ競争はルール厳守で行われていますが、国際経済競争ではルールが必ずしも厳守されていません。その意味を考えることが重要ですが、一言では書けませんので本書を読んで下さい。この部分の記述は、ある大学の入試の国語問題として出題されました。

 

競争をキーワードとしたスポーツと経済の関係性について、もう少し詳しくお聞かせください。

 

麓:この本に書いてあるように、スポーツでは、敗者に対してノーサイドの精神で接することで、持続的にその魅力を維持することができます。もし、経済活動を、商法ルールに基づく競争だと理解すると、経済競争の魅力を維持するためには、その敗者である失業者や倒産業者にはノーサイドの精神で接することが必要です。それが失業保険だったり、累進税率だったり、つまり社会福祉の充実です。累進税率が必要な理由は、トレーニング努力による筋力増加(貯筋)と違って経済活動努力による資産増加(貯金)は努力を止めても減らないので、努力の有無を越えて増え続けて平等競争を阻害するからです。

 

 社会福祉の貧困は増税でしか解決できません。その理由は簡単です。日本は高度成長が望めない高齢化社会だからです。ですから、基本的な税制はそのままとして、高齢化社会が一段落するまで、相続税と所得税を実額で1割上げればいいのです。今、税金を1000円払っている人は1100円、10万円払っている人は11万円、1000万円払っている人は1100万円払うようにします。マスコミはどこも増税を言い出しませんが、それだけで年間1兆円以上になります。相続税は2倍でもいいかも知れません。そうすれば、それでも1兆円です。私は、「自分の孫のため」という自己都合で声高に増税を叫びたいと思います。

 

―スポーツの中でも、特にこだわりのある競技について教えてください。

 

麓:サッカーとその指導です。50代の時、県大会で決勝ゴールをあげて東北大会に出場しました。先日のサッカーW杯アジア予選のUAE戦で久保が右後方からのスルーパスに反応して抜けだしトラップしてシュートしましたが、その時は、同じような右後方からの浮き球のクロスに左から走り込んでボール方向へのダイレクトボレーシュートを決めましたので、ずっと難しいゴールでした。実際、プレーを直接見ていた人は「先生は、あれでね」とだけ言って評価してくれましたが、自分にとってボールが止まって見えた生涯唯一のプレーでした。高齢者サッカーなのでマークがついてこなかったという減点要因はありますが・・・。そのころ、キリンビール大学というホームページの「サッカー部」のページに何回か原稿依頼があり、このシュートのことも書きました。現在のホームページを見るとまったく構成が違うのですが、当時はビールの造り方等が学部のページにあり、日本代表の応援が部活のページにありました。私が書いた本を読んだスタッフから原稿依頼が来て、応援の心理的効果について書きました。

 

ースポーツの文化的側面について、持論がありましたら教えてください。

 

麓:スポーツも文化の一部分ですが、多くの場合、芸術と同等のものとしては扱われていませんね。カーリングも工芸も手先の微妙なコントロールが重要なことは同じはずでが・・・。

 

 昔は、スポーツは金銭を求めずアマチュアとしてやるものと言われていましたが、最近では、選手が高額の賞金をもらうことに批判はありません。有名な画家の作品に何億の値がつくことと同じです。上の事項と関連しますが、もしその有名選手が、賞金を自分の子どもの選手育成にのみ使ったとしたら、その子どもも賞金を稼ぐようになり、スポーツエリート階級が出現することになります。ですから、そういう有名選手からは高額の税金を徴収して、すべての才能ある子どもが安価でスポーツ指導を受けられる制度を作る必要があるのです。

 

―執筆する時に心がけていることを教えてください

 

麓:事実に基づいて、すべての既成理論を批判的に検証・考察して新しい理論展開を模索することを心がけました。ポリシーは、デカルトが『方法序説』で示したすべてを疑ってかかる思考方法です。ただし、デカルトは、「本当に信じられことは、すべてを疑っている自分の存在だけだ」という認識に到達しながらも、その後に神の存在を証明しようとしました。でも、私の認識は「神は証明以前にそれぞれの心に存在する」というものです。我々は人間ですので、すべてを分かろうとするのは神に対する冒涜です。「大体こんな感じかな」というところで仮決定して生活している「実存としての人間」という限界に満足することが必要だからです。原発が安全かどうかも、本当は神様にしか分からないのです。

 

―「競争の現代的意味」を拝見したところ、スポーツのみならず政治・経済の世界にまで踏み込んだ内容が書いてあるように思えました。先生が考える現代の社会についてお聞かせください。

 

麓:この本はスポーツの分析がメインですが、政策提案競争が行われている民主主義社会の理想と現実について「競争の本質」を手段として分析し、問題点の指摘を行った本を執筆中です。

 

 民主主義は「すべての人間は平等である」という前提から出発しますが、本当にそうでしょうか。皆さんの中には、東日本大震災でこれまでにない多額の寄付をされた方も多いと思います。私もそうです。でも、同じように犠牲者の多かったスマトラ沖地震に同じように寄付された方はほとんどいないでしょう。それは、我々日本人が、東北人とスマトラ人とを平等に思って(扱って)いない証拠です。それは、私がこう言っても「そうか、遅くなったけど同じだけ寄付しよう」と考える人がほとんどいないだろうということで証明されます。私も追加寄付はしません。

 

 このことをどう考えるかが、民主主義を考える上で重要です。最近、「民主主義」を扱った好書が次々と刊行されているので勉強になりますが、著者らの展開している理論を、この問題とからめて議論していきます。

 


 

○ 20代、30代にフォーカスした人生論

  

ー人生のターニングポイントを教えてください。

 

麓:父親との葛藤、そして、大学時代に経験した初めての本格的恋愛と挫折です。説明すると1冊の本になるので詳細は省略しますが、真剣に悩んでいるうちに、フッと解決しました。「○○だから今後はこうしよう」というような論理的な思考の結果ではなく、なんとなく方向性が見えてきてそのうちに解決しました。後になると、客観的に自分を見えるようになってある程度言葉にできますが、卒業の頃には、言葉にならなくても、なんとなく気持ち的に解決できていました。

 

―若者がターニングポイントを見逃さないようにするためのアドバイスをお願いします。

 

麓:悩んでいる自分から逃げないで向かい合うことです。私は誰にも相談しませんでしたが、信頼できる人がいれば相談することも一案です。カウンセリングとは、解決策を聞くことではなく、話しているうちに自分で解決策に気づくことです。日記や小説を書くことも同じ効果があります。

 

―人生の教訓を教えてください。

 

麓:教訓はありません。人は1人1人違うので、すべての人間に共通する解決策(教訓)はありません。強いていえば、共通する方程式はないので「他力」を諦める覚悟を持つことです。仏教では、だからこそ他力本願が大切と説く宗派もあるようですが・・・。

 

―若者に教えておきたいこと、大切なことを教えてください。

 

麓:人間は愛と正義に生きる時に最も輝いています。愛とは「自らの行為に代償を求めないこと」です。「私はあなたのためにこんなにしてあげているのに」と言う人は、その相手の人を本当には愛していない人です。デカルト流に考えれば、その好意が相手のためになっているという保証がないからです。ちょっと寂しいですが「これがあなたのためになるかどうか、本当は分からないけど、これしか考えられないのであなたのためと思ってやります」という謙虚な態度が必要です。正義とは「後の続く者を信ず」という精神です。私の好きな三島由紀夫の言葉です。愛と同じように、私が正義にかなうと思って選択した行動もすべての人間が納得するという保証はありません。ですから「私は、『とりあえずこれが正義』だと思っているので、後に続く人がいると思ってやります」という謙虚な姿勢が大切です。 私見ですが、彼は人間の愛を信じられなかったのだと思います。でも、正義は信じていました。こうすることが正義に叶うと思うことは、自らを賭してもやるという精神です。現在のテロリストも三島の死も外見上は同じです。おそらく、両方とも、正義はあっても愛がないケースではないかと考えていますが、皆さん方も自分の頭で考えてみて下さい。

 

―人生で最も影響を受けた人物や尊敬している人物を教えてください。

 

麓:中学3年の時の担任です。いろいろなことを知っていましたが、いつも風采の上がらない格好でした。教壇に上がる時は、サンダルではなくよれよれのスリッパを履いていました。そのため、ノートルダムのせむし男、略して「ダム」と呼ばれていました。その影響からか、私も着るものには無頓着で、妻から「名誉教授なのだからそれなりの服装をしなさい」といつも叱られています。彼は私の卒業後に大学の数学教師として転職したと聞いています。

 

 私は、先生には恵まれていて、小学校の先生2人と中学の先生2人に大きな影響を受けました。小学校の先生とは卒業後もずっと連絡をとっていました。「杉崎隆晴」というペンネームは、その4人から一字ずつもらい、本書の最後にあるように中学3年生の時に作りました。

 

―人生で最も影響を受けた作品を教えてください。

 

麓:中学までは数学大好きの理系人間でしたが、中三の時に読んだ『二十四の瞳』で感動し、志賀直哉や武者小路実篤等の時代の小説を読み始めました。でも、「この作家が好き」として読んだのは夏目漱石と三島由紀夫だけです。太宰は途中で放棄しました。三島が嫌っていましたが、時間があれば再挑戦してみようと思っています。漱石は、日本人が持っていなかった近代的自我に気づき、日本人はどう向き合うべきかを考え続けた作家だと思います。

 

 最近は小説を読んでいません。スポーツとの関連でいくつかは読みましたが。三島は「人間が美しいならば、その美しい人間がなぜ美しい作品を作らなければいけないのか」というシニカルな問題提起をしています。多分、『私の遍歴時代』だったと思います。「事実は小説よりも奇なり」という生活を送っている人は小説を読んだり書いたりする必要がないのではないか、というのが読まない理由のこじつけです。

 

 思想的には、高1の国語の時間に読んだフランス哲学者澤瀉久敬著の文庫本『「自分で考える」ということ』です。ここで、「思想の英雄 デカルト」という説明があったと記憶しています。中学生ぐらいになると、「どうせ他人には自分のことは分からないんだ。自分は1人ぼっちなんだ」という考えを皆が持つと思います。でも、「ひとりぽっちだから何をしてもいい」という結論になるのは暴走族ぐらいです。私にとっては、その後の思索の手引きとなった本です。読書方法について、この本では、「まずはすべて正しいと思って読みなさい」と書いてありましたが、私は、「孔子は『これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為す、これ知る為り』として自分で判断するように求めているが、どちらが正しいのか」と尋ねました。正確な回答は覚えていませんが、読み方のレベルの違いだというような回答を得た気がします。この先生は人気があって、担任を持った学年では卒業後もつきあいが続いたようです。

 


 

○ 最後に人生の先輩として大志を抱く方へ、メッセージをお願いします。

 

麓:「出る杭は打たれる」というのがこれまでの日本社会です。それでも高度経済成長ができたのは、重工業重視政策という誰もが納得できるような方向性が明確だったからです。今後は方向転換が必要ですが、死語になりつつありながらも日本社会の底流にある「世間」重視の流れは、ちょっとでも流れを変えようとする勢力の前に立ちふさがっています。ですから、うまく立ち回りながら発言することが、「大志」を実現するための知恵です。最近問題となった「忖度」もこの文脈で理解すべきなのです。

 

 でも、「出すぎる杭は無視される」という面もあります。本書でも紹介していますが、ロバート・ホワイティング著の『和をもって日本となす』で「日本語を話すガイジンたち」と指摘されたプロ野球選手の江川や落合のようにふるまうことも選択肢です。でもそのためには「実力」が必要ですので、自分の立ち位置や実力を踏まえて、どちらを選択するかを決めて、自分の「大志」の実現に向かってほしいと思います。でも、その前に、今イメージしていることが本当の大志であるかどうかの日々のチェックを忘れないようにしてください。「君子豹変す」のという諺があるように、大志の微調整も、現実生活においては必要です。

 

 なお、ネットで意味を確認したところ、この格言は、本来の意味ではなく、誤用されて悪い意味でも使われるようになったと出ていました。自分で分かっていると思っている自分の「大志」も日々検証することが大切です。