旅路遙か <下>
(著) 野間口至
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私たちが入学した時の状況は次表の通りで、表は記念文集「主題と変奏」中の吉田公一の文から借用し、それに今年度の入学定員を付記してみた。吉田は「当時、其筋から聞いた話を想い出すと、合格点を一点下げると入学者は五百名を下廻るが、高倍率で優秀な志願者が多かったので敢えて当初の定員を百十一名、クラスで二クラス、何と二十五パーセント定員オーバーとなったと言う。」と書いている。
当時は、進学適性検査が事前にあって、その点数が足切りに使われた。従って、足切り後は五倍くらいであったのではないかと思っている。私は当然前の百十一名の中に入っていたと確信しているが、学部の合格人員が定員とは大幅に増減しているのは、単科大学の伝統から、学部に関係なく成績順に合否を決めて行ったためだろう。
一橋では、教養課程の一年・二年を前期と呼んでいたが、クラス分けは第二外国語の選択により、アルファベットのL・M・N・P・Q・R組がドイツ語、S・T・U組がフランス語、W組がロシア語・中国語等の選択組であった。当時、A・B・C・D・H・I・J・Kの八組が二年で、一年は定員オーバーしたため十組に増えたものである。
私たちが入学した直後の五月一日に「血のメーデー事件」が起き騒然としていたことを覚えている。学内からも、逮捕者が出たと聞いた。さすがにその年は、私は参加していなかった。
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