遥かなり母国:15歳の少年が目撃した満州、北朝鮮からの引揚の真実

(著) 赤川行

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作品詳細

父とついに話ができなくなった。その閉じた瞼の奥には、彼が生まれ育った北朝鮮での家族との平和な生活や戦火を逃れ駆け抜けた少年時代の記憶が巡っているのだろう。彼にとってまだあの大東亜戦争は終わっていない。私は父とあまり会話をしてこなかった。幼い頃から彼の生い立ちも知らず、栄養失調で全歯を失った事や、生き延びるため、鶏を裁く汚い仕事をしていた話から父の事を誤解していたからだ。
私は父が経験した悲惨な戦争を知らず、バブル絶頂期に青春を謳歌している。大東亜戦争や世界のニュースにも興味を持たず、実家に帰る事もなく勝手気ままに生きていた。しかし私がアメリカに移住した後、父が晩年になってからは年に一度くらい会うようになった。父は、 何十年も前に終わった戦争や満州引き揚げの話ばかりをするようになっていた。常に話にあったのは、生き別れとなった父(私の祖父)への後悔だった。
2000年、父が自己出版をした「遥かなり母国」を手にとって読んだのは最近の事。これを読んだ時、その詳細な記述や描写に驚いた。戦争終結直前、卑劣なソ連兵の進軍により想像を絶する女性への暴行や虐殺が行われたという事実を改めて知った。悲惨な状況の中生き抜いた父を尊敬すると共に授かった私の命の奇跡に改めて感謝がこみ上げてきた。
この書は私にとってどんな金品にも匹敵ならない親からの財産だ。そして記録に残しておかなければいけない重罪犯の急ソ連軍、極悪非道なスターリン、旧日本軍に対しての父娘からの叛乱でもある。戦後、平和な時代に生まれ育った私のような世代が、この「国外で起こった戦後の戦争」を継承していかなくてはならない。それが去年、意識が薄れる父が私の手をかすかに握り返した意思だと受け止めているから。
満州引揚「真実の書」の再出版にあたり、北朝鮮や旧満州国で日本に帰還できず生き地獄の挙句、力尽きた人、前途を悲観して自ら命を絶った人、祖父を含む未だに凍地に永眠している人達、少年兵達など大勢の日本人犠牲者に哀悼の意を捧げたい。
編集者 関根絵里(旧姓 赤川) 

[著者プロフィール]
赤川 行(あかがわ・すすむ)
1929年9月20日、北朝鮮で赤川禎治と赤川宣の間に生まれる。
5男、9人兄弟の7番目。両親は北朝鮮、羅津で主に満州鉄道関係の日本人客を招く「宝来旅館」を営んでいた。
1945年、8月9日、15歳時に旧ソビエト軍の進軍により戦火に巻き込まれ避難中に両親と生き別れとなる。ソ連軍参戦の日から17歳との姉と二人で戦火を逃れあてのない生き残りの旅を続け、旧満洲国、吉林で避難民となる。厳寒の凍地で飢えと病気で毎日死に絶える同胞を目の当たりにし、希望のない難民生活からも著者は仕事を探しながらサバイバルを続ける。ロシア兵が駐留する旅館のボーイとして、また、中国飯店で奴隷のようにこき使われながらも生きながらえる。
1946年秋、未踏の地、日本の博多港に引揚げをする。引揚げ後、生き別れとなった家族がどのような運命を辿ったのか知る事となる。その後、妻を持ち3人の子供を儲かる。陸上自衛隊の勤務を経てマツダに就職。福岡、広島を住居とした。退職後、福岡県、宗像市に移住する。晩年は、中国残留孤児、その家族の世話などをし、戦時中に苦労した同胞に報いた。地域に貢献しながら静かな余生を暮らした。

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