鬼道(おにがみのみち)の経典 古事記を読む
(著) 配山實
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古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ (松尾芭蕉)
大自然界に棲息している生き物は、喰うか喰われるか、凄まじい生存競争を延々に繰り返している。生き物は他者の命を横取りして己が命を永らえさせている。人類も例外では無い。肉や魚は無論のこと、米や野菜も生き物である。それら生き物達の命を横取りして人の命は永らえている。
狩猟採集時代(原始的アニミズム時代)の人びとは今しがたまでピョンピョン跳ねまわっていた獣や空高く飛んでいた鳥、たわわに稔った木の実や土深く根を張っていた菜類を口にしていたために、他者の命(八百万神)を己の命に「接(つ)ぎ木」していることを実感できていた。
現代人にとっては食べ物は単なる「物」に過ぎないのだが、物自体に命の存在を認めていた時代の人びとにとっては命ある物は「神」であり、自分たちが神を食べていることに気付いていた。そして他者の命を以て己自身が生き永らえていることに気付くと、八百万の神々に感謝する気持ちと敬虔な信仰心が萌え出る。「いただきます」と手を合わせて箸を取る日本的食事マナーの原点には、食べ物(八百万神)自体への感謝の気持ちが込められていた。
八百万の神々が割拠していた神代の世界では、神が神を喰うことで命(みこと)(神)のリングを次々に繋ぎ留めることが出来ていた。換言すると、命(いのち)の環を繋ぎ留め出来る貴重な糧が「神」であり、その「神」を体内に取り込んだ方が「命(みこと)」と称され崇拝されていた。
そして、他者の命を体内に取り込んだ以上、その命(みこと)(神)は、己一代で終息させてはならないとの責務感が付きまとう。すなわち「命(みこと)」とは、己が口にした「神」を次代へと受け継ぎ渡す責務を負った方の尊称であり、その点、万世一系を誇る天皇家の先祖を「……命」と称していることも頷ける。歴代の天(すめら)皇(みこと)は、代々受け継ぎ渡されてきた原母(天之(あまの)御(み)中(なか)主(ぬしの)神(かみ))の命の中継ぎ役を果たしていたことになる。
倭(やまと)詞(ことば)の「米(こめ)」とは、「子(こ)芽(め)」の謂である。日本人にとっての米は特別な存在となっているが、米が信仰の対象にまで昇格された原点には、遺体を「子芽」と崇める「再生(よみがえりの)道(みち)」があった。物すべてに霊魂の宿りを信じ切っていた鬼(おにがみの)道(みち)、再生道の世界でのこと。その「子芽」(精子、卵子)に醸し出される遺体を口にしたことで、「子芽」が生成されるとのアニミズム的科学である。
現代人の感覚では己の遺伝子あるいはDNAは性行為によって子や孫へと受け渡すことになるが、物自体に霊魂の宿りを信じ込んでいた原始的アニミズム時代の人びとには「子芽」自体の継承が絶対視されていた。そして、この「子芽」の受け渡しで以て、「子の芽」の元手である先代の命は世継ぎの体内を経て生み戻しされると固く信じていた。
正月恒例の箱根駅伝は二日間に亘ってタスキの受け渡しをするが、鬼道の世における「命の緒」(タスキ)は子々孫々に受け渡しされた駅伝の様相を呈していた。それは現代人的遺伝子のバトンタッチではなく、身体丸ごと、すなわち肉体に宿っている霊魂の受け渡しが必要とされた。
「万物の霊長」と天狗になり切って久しい人類だが、元を質せば地球上の生き物の一員であり、宇宙創造の観点から捉えると、アメーバーのような単細胞生物と本質的な違いは無い。全ての生き物を八百万神と崇め、共生していたアニミズム時代の人びとは人類のこの存在性を的確に把握していたと言える。
本書は古事記神話をナビゲーターとして、原始的アニミズム時代に誕生した鬼道なる宗教の歴史と真相を捉え、再生道(命のバトンタッチ)の実体を描くものである。
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