日本近代医学史:西洋医学受容の断層像

(著) 金津赫生

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作品詳細

「御茶ノ水駅から神田明神に向かって聖橋を渡ると、すぐ左側の東京医科歯科大学歯学部の建物の横の空き地に『近代教育発祥の地』という立札が立っています。「江戸時代に昌平坂学問所があったところである。…明治維新後、学問所は新政府に引き継がれ、昌平学校、大学校、東京大学と発展していった…」などと書かれています。一方、洋学調所、開成所、大学南校のあったとされる、現在の学士会館の前に『東京大学発祥の地』の立札が立っています。それぞれ文京区と千代田区が設置したものですが、両立札を入れ替えたほうがしっくりするように思われますが、いかがでしょうか。東京大学は間もなく創立百五十年を迎えますが、明治維新という変革にまつわる不都合をもう一度見直す必要があるのではないでしょうか。東京大学の正史は『東京帝国大学五十年史』、『東京大学百年史』、『東京大学医学部百年史』などでありますが、医学部に関して不可解な点は、医学部医学科の第一回卒業生の数が、東京大学の編纂した前二著では18名となっているのに、医学部の編纂した方は20名とされていることです。往時、医学部綜理心得であった石黒忠悳によると海外派遣留学生の選考事情が関係しているとのことですが(『懐旧九十年』)、石黒の記述にも記憶違いがあり、さらに詳細な検討が必要です。繰り上げ卒業となった二人のうち一人は十二年の卒業、他の一人は学位を授与された十三年の卒業と自称しています。第一次資料は東京大学に保管されているでしょうから、部外者が口をはさむのは僭越ですけれども、「灯台下暗し」の喩えもありますから、やや離れた位置から一石を投じてみたのが本書です。」(本書「はじめに」より)

【著者プロフィール】
金津 赫生(かなづ・あつお)
昭和十年   東京に生まれる。
昭和十九年  熊本市に転地。
昭和三十六年 東京医科歯科大学医学部卒業。
東京医科歯科大学第一内科、都立墨東病院、日本ロシュリサーチセンターを経て
昭和五十六年 筑波大学医療技術大学部教授
平成十一年  定年退官、筑波大学医療技術大学部名誉教授
平成十三年より筑波記念会トータルヘルスプラザなどで非常勤医師として検診業務に携わる。

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