石川啄木骨肉の怨 家庭内精神力動

(著) 西脇巽

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作品詳細

啄木研究者を自認する者ならば必読となっている書籍に、啄木の妹・三浦光子著の『兄啄木の思い出』(理論社、一九六四年)がある。啄木の幼少時のことや父親・一禎が残した和歌などが紹介されており、それなりに貴重な文献となっている。啄木関係書籍に引用されていることも多い。また「啄木末期の苦杯」と金田一京助が述べた、啄木の妻・節子と啄木の友人・宮崎郁雨の不倫関係をスキャンダラスに暴露している書籍としても著名である。光子が主張する「節子と郁雨がただならぬ愛人関係にあった」などという説については私はとても信ずることは出来ない。私としてはそのためにこの名著の価値を悲劇的なほどに貶めているとしか思えず、その意味で残念でならないのであるが、そのことについては拙著の『石川啄木 不愉快な事件の真実』(桜出版)を参考にしていただきたい。
 しかしながら私が言いたいのは、三浦光子が書いたものだからみんな間違っている、ということではない。貴重な証言としての価値もまた高いのである。(まえがきより)


【著者プロフィール】
西脇 巽(にしわき・たつみ)
 1942年(昭和17年) 6月1日 福井市において西脇勝・三枝子の4人3番目目次男として出生
1945年(昭和20年) 7月19日 福井空襲に遭遇。母は当時3歳の当人をおんぶし、9歳の長女、7歳の長男の手を取って福井市内の足羽根川に逃げ込んで九死に一生を得ている。
1947年(昭和22年) 神戸市に転居
1948年(昭和23年) 4月 神戸市立和田岬小学校入学
1951年(昭和26年) 6月 大阪に転居 大阪市立三先小学校に転校
1952年(昭和27年) 4月 函館に転居 函館市立千代田小学校に転校
10月 函館市立中島小学校に転校
1953年(昭和28年) 6月 函館市立青柳小学校に転校
1954年(昭和29年) 9月26日 洞爺丸台風に遭遇
1955年(昭和30年) 3月青柳小学校卒、4月函館市立潮見中学校入学
1958年(昭和33年) 3月潮見中学校卒、4月北海道立函館西高入学
1960年(昭和35年) 西高生徒会時代に60年保安闘争を体験
1961年(昭和36年) 3月函館西高卒、4月弘前大学医学部入学
所謂学生運動に参加 民青同盟加盟
医学部ではインターン闘争にかかわる。
1962年(昭和37年) 津川武一と知り合う。
1964年(昭和39年) 青森県民医連奨学金受給第一号となる。
1968年(昭和43年) 3月 弘前大学医学部卒業
          医師国家試験合格
          11月23日 同級生・鈴木洋子と結婚(津川武一仲人)
洋子はその後協立病院副院長に就任し現在に至る。
1969年(昭和44年) 1月 弘前大学医学部神経精神医学教室医局入局
1969年(昭和44年) 6月~1970年8月 青森市立病院小浜分院勤務
1970年(昭和45年) 9月~1971年5月 弘前精神病院(現・愛成会病院)勤務
1971年(昭和46年) 6月~1972年5月 桜田病院(現・聖康会病院)勤務
1972年(昭和47年) 6月~1973年11月 健生病院勤務
1973年(昭和48年) 12月~ 八甲病院(現・生協さくら病院)勤務 福院長就任
1975年(昭和50年) 秋浜雄司二代院長逝去 八甲病院院長就任
          青森市長選挙立候補 3回(1987年、1989年、2001年)
2003年(平成15年) 生協さくら病院名誉院長就任
2005年(平成17年) 12月 社会福祉法人・虹 理事長就任
2007年(平成19年) 秋 秋田児童連続殺人事件被告人 精神鑑定担当

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