日米英蘭開戦への道: 「日米戦争」の真実

(著) 加藤征男

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作品詳細

日本は、どのようにして戦争へと突入していったのか——日米戦争の真実を綴った“新・歴史書”。
「米国を敵国としていた日本海軍は、資源獲得のためにこれらの国に侵攻すれば必ず米国は参戦してくると確信して、アメリカの軍備が整わないうちに潰滅しておこうと、東南アジア諸国への侵攻と同時に行ったのが山本五十六大将のハワイ「真珠湾攻撃」であり、これが「太平洋戦争」または「日米戦争」である。そこに至る道筋が本作の題名である「日米英蘭開戦への道」と言うことになる。」(本文より)
各国の首脳会議の様子、東條内閣が誕生した経緯、幻となった日米首脳会談、そして真珠湾攻撃の詳細など、日米戦争に至る道筋を膨大な資料をもとに提示。
現在、当然のように思われている〈平和〉の有難みを、今一度認識するために読んでおくべき一冊。

【目次】
第一章 「バスに乗り遅れるな」
 「パナイ号」事件
 海軍 新南群島(南シナ海)占領宣言
 日独伊三国同盟締結
第二章 日米国交修復なるか
 野村吉三郎海軍大将駐米大使へ
 日米了解案
 南部仏印施策
第三章 石油がなければ海軍動けず
 レインボー作戦計画
 ハワイ作戦案
 大西洋会談
 幻の日米首脳会談
第四章 ハワイ作戦未だ決まらず
 海軍の意見対立
 東條内閣成立
 日米外交交渉の最終期限は一二月一日零時
第五章 「アメリカの宣戦布告だ!」
 ハワイ作戦決定
 ハワイの防衛
 「ハル・ノート」
 対米英蘭開戦を決定
 機動部隊巣冠湾〔ひとかっぷわん〕へ
第六章 米英蘭戦の開戦
 フィリピン作戦
 マレー・シンガポール作戦
第七章「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」
 空母はハワイから移動せよ
 機動部隊出撃 波高し
 特殊潜航艇 帰還せず
第八章我奇襲に成功せり
 「トラトラトラ」
 遅れた対米通告
 真珠湾攻撃のその後

【著者プロフィール】
加藤 征男(かとう・ゆきお)
昭和十六年十二月、新潟県中蒲原郡川東村(現五泉市)で父繁男・母トシエの長男として生まれる。この年は、私が今回著作した「日米英蘭への開戦」の年です。
父は、昭和十二年八月に召集を受け、中国大陸に渡り、第二師団第三輸卒隊の輜重兵として太原の攻略戦参加を始め、徐州、武漢、襄東作戦に至る対中戦のほぼ全域の戦いに参加、昭和十四年九月に復員し、翌十五年三月に同村の母と結婚した。同月、父は駐在所の巡査の勧誘を受けて、新潟の警察官教習を終え、六月末同県村上署勤務。
そして、昭和十六年七月、再召集を受けで満洲に出征、十八年三月に召集解除、約一年八ヵ月の任を終えて復員、終戦後の二十二年まで村上署勤務、そのご燕、六日町に転勤し、六日町署から県警本部に転勤も官舎が空く間、父は実家から通う。母も子供七人と村に帰る。
このとき、一番下の弟はまだ乳離れしておらず、父の実家は酒屋を営み、長男の嫁としての母は、産後の労苦も重なり三十年の雪深い一月、四十歳という短い生涯を終えた。
母が亡くなって間もなく、父は阿賀野川の対岸の村から継母を迎え、新潟市内に官舎も空いて移り、そんな中で書いた原稿用紙四枚の、父の実家で過ごした体験を新聞に投稿し、十五歳のとき「コント」欄に入選、文学に興味を持ち本ばかり読んでいた。新潟の工業高校に入学して間もなく、父が永住のため新潟市内に居を構えたが、私は継母と反りが合わず、大手の重工業を顧客とする企業で、文学の勉強と人生経験を積むつもりで東京に出た。
しかし、あるとき、明治生まれの創業者から、どこで聞いたか「三文文士をめざすより、うちの会社で力を発揮してはどうか」と言われ、その後四十年間、経営の一端を担い、後半では赤字続きの会社を黒字にするまでに回復させ、計画的退職後の六十過ぎから『1945終戦への道』(文芸社・電子版も)、『日米英蘭開戦への道』(文芸社)を出す。

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