喜寿の男と仲間たちの物語

(著) 中川豊

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作品詳細

 私の原点は二~三歳の頃に出会った絵本にあります。それは、昭和一六年に大日本雄弁会講談社現、講談社から出版された和気清麻呂(わけきよまろ)でした。文字も言葉もわからない子供が、絵本を見ながら自然にすらすらと喋ったと言う話を、何度も聞かされました。
 私のご先祖様については誰かに聞いて知るしかなかったのですが、今はもう亡くなりましたが、私の母の妹の叔母さんが九〇歳まで健在で叔母さんから聞いた話を元に書きつづりました。また、一九六一年から一九六五年はなにしろ五〇年も昔の事であり鮮明に記憶が残っているものもある反面、記憶が途切れたり、薄れている部分も多々あります。
 それから社会に出た一九六五年からは宮崎県庁の職員となって淡水漁業指導所に配属されるがここで魚の養い方を、身を持って教えられる事になる。この男は長崎大学水産学部卒業後に、宮崎県淡水漁業指導所、宮崎県水産課を経て、宮崎県水産試験場淡水増殖科綾試験地主任研究員、宮崎県水産試験場小林分場主任、宮崎県水産試験場延岡分場主任兼宮崎県栽培漁業センター主任、宮崎県水産試験場増殖部水産増殖科長、宮崎県水産振興課水産専門技術員、宮崎県水産試験場増殖部小林分場主任を経て、宮崎県水産試験場の魚病相談員となり宮崎県の水産業発展に努力した。
 また、この物語は一人の男をはずしては成り立たないのである。その男の名前は野田利典君である。彼は小林市にある国際交流支援の会の会員である。この男から平成二八年八月二四日(水)に県の水産政策課の玉木さんに電話があって野田君がネパールで私が教えた研修生のグルングさんやネパールさんにあって私が元気かと聞いてくださいという電話が玉木さんに来たと言う。そして野田君の電話番号は……であると私に電話してきた。それから私の住所や私が書いた本を野田君が探し始めたと言う。(まえがきより)

【著者プロフィール】
中川 豊(なかがわ・ゆたか)

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