駿河台の空は暗かった

(著) 神原崙

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作品詳細

大いなるものと向き合い、類まれなる理知と思想とが相俟って構成される
大東亜共栄圏の真実とは何か?
物語は第2次世界大戦の荒野を駆け巡り
苦しさの中にも希望を見出そうと躍起になった世代の生々しい現実を
華麗なる筆致で描き出す。
戦争とはかくの如きだった!

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昭和十八年から二十年までの、あの激動の時代に、あらゆる哲学書を読んでも、先人の話を聞いても解決できなかった。自分が自分の進むべき道を、どんな死に場所を見出すのかを、決断しなければならなかった時代であった。しかも時間の余裕は全くなく、急を要した。
 齢八十三歳を迎え、若き十八歳の頃の淡い青春と、それぞれの人間模様(ドラマ)、そして悲愴な覚悟と心意気によって、あの時代の流れの中で、特攻隊に志願した。六十四年前の軍国主義時代に青春を捧げ、その後の民主主義の中で大きく変貌する真っ只中で、あの果敢な青春を生き抜いた実録を歴史のひとこまとして、皆様の記憶に留めて頂きたいと思い、小説として書き下ろしました。

神原 崙

『駿河台の空は暗かった』に寄せて


引揚を記念する舞鶴・全国友の会会長/
元京都府知事/元参議院議員/元法務大臣  林田悠紀夫

『駿河台の空は暗かった』を拝読して、私とほぼ同じ時期に学び、戦争に駆り立てられた著者の心が痛いほどわかります。
 しかし、神原さんは全く幸福な人であり、神が救ったと思われます。敗戦のときに、戦場を後にして軍用列車が南鮮に入り、神原さんは釜山港を発って、祖国日本に帰ることができたことは、全く万人に一人であったのです。私はその頃、インドネシアのボルネオで戦い、多くの戦死者を出し、幸運にも生存することができたのでありますが、人間の運命は如何とも為し難いものであることを痛感させられました。
 神は神原さんに暖かい光を与えました。私は本書を拝読して、神原さんの幸運は神の与えたものと思い、神原さんの人格の然らしめたものと思います。然るが故に、神原さんは長生して世のため人のために盡くしていただく必要があると存じます。
   平成十九 七月吉日


畏友神原崙君の名著に寄せて


中央大学元教授/法学博士/弁護士  木川統一郎

 激動の昭和十八年!
 この年の四月一日に著者神原崙君も私も、C大学に入学した。この年の十月には、上級生のほとんどは「学徒出陣」した。大講堂で盛大な出陣式が催された。送られる者も送る者も、悲愴な気持ちであった。
 翌年五月には、陸軍特別操縦見習士官が出陣した。どうせ死ぬなら華やかにと、このコースを選んだのが神原君であった。戦闘機乗りや爆撃機乗りへのコースであるから、当時学生の間では憧れの的であった。しかし試験が難しかった。出陣式は上野駅前広場で、各大学合同で行われた。もちろん私も見送りに参列した。出陣学徒は、三人一組で作った騎馬に乗り、左手に軍刀を握り、右手を振り上げて声を限りに叫んだ。見送る我々も、「あとからすぐ行くぞ」と叫んだ。
 翌月からは毎月のように、陸軍特別幹部候補生が出陣した。私はこのとき出陣した。十九年は、学園からどんどん学生の姿が減っていった。そして最後には、C大の校舎には学生は一人もいなくなった。かわって、陸軍の部隊が兵舎として校舎を使い始めた。中庭には兵隊が整列し、大教室は中隊長の精神訓話に用いられていた。私は陸軍に入隊後、C大の校舎がどうなっているかを一度確認にきてこれを知った。ある日外出を許可され、神保町の音楽喫茶エムプレスに行って、ベートーヴェンを聴いていた。隣に一人の陸軍将校が座っていた。先方から言葉があり、C大の先輩とわかった。校舎がどうなっているか見に行こうということになり、校舎内に入って教室を見て回った。自分が授業を受けた教室は兵隊に占領されていた。わけもなく涙がとめどもなく流れた。
 あのころ、学生は哲学者西田幾太郎の『善の研究』や倉田百三の『愛と認識との出発』『出家とその弟子』などを愛読する人が多かった。しかし、何故出陣し何故死ぬのかの答えはそこからは引き出せなかった。学生はめいめい自分でそれを考えなければならなかった。駿河台の空は本当に暗かった。戦争を知らない若い人々のため、この名著は書かれたと思う。若い方々に一読をお勧めしたい。

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